「流行に敏感」であることは、ステータスになるのだろうか。
そもそも流行は「大多数の支持を得た物」であるのだから、いわば「没個性」の見本といってもよいのではなかろうか。
それに、流行に敏感な人々が時を経てふと振り返った時、来し方にあるのは珍妙な存在に彩られた己の謎な姿の数々....ということになる。それも人間味のひとつともいえるだろうが。
筆者の場合、基本的には流行に疎い。
コンピュータ関連を趣味としている故か、知人には情報や流行に明るいように思われているのだが、筆者の場合、情報機器を用いて情報収集をしているというよりは「情報機器の情報を収集している」だけなのである。
某所でよく言われる所の「手段のために目的を忘れる」典型なのだ。
その上に、そうしたニッチな世界の中においても、常に「微妙に流行を外してまわっている」のである。
現在のホビーコンピューティングの流れはメディアとの融合であると思うのだが、筆者宅は未だに地デジ化が完了していないため、そっち方面の知識吸収はアナログキャプチャで止まったままだ。
また、今日のスマホの流れに乗る以前に「もどき」ガラケーを逝ってしまった。このマシンの出来がまた良すぎたために、嫉妬半ばに銀河や林檎を指をくわえてみている....という状況なのである。
そしてこのキーボードはというと、「かつては先端機器の補助デバイスだった」過去のとんがったキーボードだったのかも知れない。
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