短期集中連載(笑)
オレンジと緑色の電車は、南荒尾信号場を過ぎると大きく右に折れながら、本線をオーバーパスしていく。 ・・・・園部あたりまでの喧騒も、長距離客が寝静まるまでのさざめきも、もうこの時刻には存在しない。 夜明け前の深い藍の色が満ちる山陰の町をぬって、静静と列車は走りつづける。 相原幡生(20)は、ぼんやりと大時刻表を眺めた。 遠く下関まで乗り通すつもりの今日の予定を考えれば、今のうちに寝ておかなければ後々きつくなってくるのは目に見えている。 だが、旅の初日はいつもこうだ。 もう眠れなくなった相原は、気分を変えようと洗面所に立った。 ディーゼル発電機がやかましく唸りを上げる緩急車にたどり着いた相原は、その向こうにクラシックな幌が口を開けているのを見た。 今やどこでも見なくなった旧型の寝台車である。 相原は、その寝台車の洗面台を使うことにした。 車掌の目をはばかりながら、手押しの折戸が半分開きかけたデッキを抜けた。 年代を経てほどよく黄ばんだ磁器の流し、白熱電灯、そして天井で低く唸る円筒型のクーラー.... ここへ来た目的も忘れて、相原はその古色蒼然たる調度に見入った。 「あ、ごめんなさい....」 後ろの人の気配に我に返った相原は、慌てて飛びのいた。 「あ、いや、どうぞ」 おだやかな声が応えた。 相原が言葉に甘えて急いで顔を洗い、 「どうぞ...」 相手の顔をみやったとき。 ”あれ....この人....” 「失礼ですが、どこかで....」 「は?」 「お会いしたことがあるような...たしか....新垂井の....何年か前に」 「はぁ....そうでしたか。すみません」 「いえ....失礼ですがこちらへはご旅行で?」 「え、ええまぁ....」 3年前と同じ返事、同じはにかんだ表情が返ってきた。 厳冬のこの時期、沿線はカニ漁で賑わう。 ほどなく列車は、早暁の香住駅に到着した。 朝の空気を吸おうとデッキから顔を出した相原の目に、黒縁眼鏡の紳士の姿が映った。 列車から立ち上るスチームをぬって改札にたどり着き、切符を渡す。 その姿がどことなくほほえましくて、相原は走り出した列車の窓から駅が消えるまで後ろを見やっていた。・・・・ ・・・・小さな駅舎と不釣合いなほど広大なヤードを長い跨線橋で抜けると、さらに小さなホームに1両だけの列車があった。 相原幡生(37)は久しぶりに見る道央の風景を、あまり感慨もなく眺めていた。 立ち枯れたような早春の雑木林。 錆びた天井川の橋脚。 白く霜の降りた広い畑。 どうして自分がここにいるのかわからない。 もう昔のように、列車を求めて、スタンプ目指して旅をする自分でもない。 所在なげに二重窓の枠に頬杖をつくと、急に眠気が襲ってきた。 ”旅は過程を楽しむもの” ”飛行機で出かけるのは、前戯なくして何とやら” ....昔読んだ本の一説が、頭の中で渦巻く。 それを実行する時間も、心の余裕もなくしつつある自分が立ち止まっている。 ....「ご乗車ありがとうございました。終点・悲別です。お忘れ物のないようお確かめ下さい。この列車は折り返し7:37発砂川行きとなります」 終点の構内放送が相原の耳に届いた。 「そうか....終点か....」だが相原の目はつむったままである。 「終点です、お客さん。終点・上砂川ですよ」 「あ、はい....え?」相原は車掌とおぼしき声にようやく目を開けることができた。 「たしかここは....悲別ですよね?」 「いえ、上砂川ですよ」 「え、だって今構内放送でも....駅名表示板だって....」 「ああ、あれはあのドラマ以降ここの職員がそうしてるんですよ。本当は函館本線・上砂川支線の終点、上砂川駅です」 車掌はくりかえした。 「そう....悲別ではないんです....」 相原は初老のその車掌を見やった。 黒縁の眼鏡の奥で、優しい目が笑ったような気がした。”あっ....” 「....失礼ですが、どこかでお会いしましたか....?」 「は?さぁ....すみません」 「そうですか....あの....乗務はこれからどちらの方へ....?」 「ええ、まぁ....」 車掌ははにかんだような表情ではぐらかした。 その様子は、まるでいたずらで車掌ごっこをやっている少年のように相原には見えた。 「そうですか....どうもありがとうございます」 相原は肌寒いホームに降り立った。 くぐもった空から、少しばかり早春の陽光がもれ差してくる。 なんとなくそのまま折り返すのは憚られて、列車を一本やり過ごすことにした。 ホームに出発のチャイムが鳴る。 赤いディーゼル車の扉が閉まり、エンジン音の高まりと共にゆっくりと走り出した。 「では」 ホームに座る相原に、かの車掌が軽く敬礼をくれた。 「また....会えますよね?....」 心の中で問いかけながら、相原は去っていく列車をいつまでも見送っていた。 |