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短期集中連載(笑)

−この物語は、フィクションである−


その139



「・・・・君のことはよく知っているつもりだ」老人が言った。

「私も貴方のことは知っているつもりでした。だが貴方が私だったとは今日まで気が付きませんでした」政治家が応えた。

「私もだ」
「どうやら接点が見出せたようですな。貴方はいつごろから?」
「それはこっちが聞きたい。私の作品に明らかな変調が現れたのは85年頃のことだ」
「私がこの世に生を受けた頃と符合しますな」
「なるほど。私は分身をこの世に送り出したということになるな」
「それは逆でしょう。私の精神に感応した貴方が恐るべき作品群を生み出すことになったのだ」
「....その点については議論しても始まらないな」
「そのようですね」
「で、君はこれからどうするつもりだ」
「『理由がわかれば、不安は存在しない』私の座右の銘です。私にはなすべき責務があり、それは多くの民の望むところでもあります」
「多くの血が流されるとしてもか」
「犠牲は常に大業に伴うものです」
「君の意図するところはいささか違うだろう。私と共有する部分を否定するために今の君を築き上げた。そうではないかね?」
「......」グルーバー(48)の精神は、エドワルド(74)の魂に核心を衝かれ、返答に窮した。
「だとすればこれから君がなそうとしている大業とやらは砂上の楼閣、そしてそれに供される犠牲はたんなる無駄ということになる。この辺で下りてみてはどうかね」
「たとえそうだとしても、私のここまでの政治家としての人生は、貴方、そう、そのような個に偏重する貴方の潜在意識を否定するところから始まったのです。不安や恐怖は何も生み出さない。行動することこそが唯一の芸術なのです」
「......」
「どうやらやはり接点は見出せないようですな。今後も貴方を、己が死を否定しつづけることが私の役目のようで」
「......私をどうするつもりかね」
「間もなく、お会いすることになるでしょう。生身の人間同士....」
「.....」

エドワルドの目の前の4枚の絵から立ち上るオーラが消えた。
と、時を同じくして、グルーバーの目の前の絵からも、瞳の奥の暗い光が消えた....

そう、もうじき会う事になるだろう。
電撃作戦の開始は目前に迫っている。そしてスカンジナビア奇襲、その時には....

....総統執務室の光の中で、物言わなくなった絵の姿をした老人と向かい合ったまま、グルーバーは決意を固めた。・・・・



1945/04/30 ベルリン


1943年2月ドイツ軍スターリングラードで降伏。北アフリカ戦線退却開始。
1944年6月連合軍D-day作戦上陸成功。
1944年7月ハンブルグ大空襲。
1944年8月パリ解放。
1944年9月ジークフリート線に米軍到達。
1945年ソ連ワルシャワ占領、アウシュビッツ解放。
1945年4月ソ連軍ベルリン到達。

地下壕の外から、散発的に銃声が聞こえてくる。
10日前に56歳の誕生日を迎えたばかりのグルーバーは、側近と4名の女性と共に、瓦礫の下で最後の時を迎えようとしていた。
「アドルフ....」
最愛の妻、エヴァがグルーバーの肩に手をかけた。「これからどうなさるの?」
「......私は敗残の身だ」
確かにそうだった。

1944年1月を境に、彼の祖国は急速にその勢いを失い、以降は連合国軍に対し撤退に告ぐ撤退の日々だった。

そう、あの老人が彼の心から消えた、あの日から。
孤独な死への不安と恐怖....生涯の大半、彼を苛み続けたその老人の感性が彼の中から去ったとき、稀代の独裁者としての彼も消滅したのだった....

「....貴女はオーバーザルツブルグへ逃れるがいい」
それに対してエヴァは優しく笑って応えた。
「でも、ご存知でしょう。わたしはあなたと一緒にとどまります。わたしは絶対に離れませんよ」
それはまるで、母が幼子を寝かしつけるかのようなエヴァの言葉だった。

エヴァは、ファーストレディとしては、夫の贔屓目に見ても幼すぎた。
だが、グルーバーが彼女に求めていたのは、そんなものではない。
救国の英雄として、そし希代の暴君としての精神が崩壊した彼に必要だったのは、若き日に亡くした母の存在だったのだ。
そう、彼は今、あの絵に出会う前の少年に戻っていたのかもしれない。

”私は幸福なのだろう。あの老人は、何と言ったか、かの愛する女性に左手指を吹き飛ばされたそうだが、私はこうしてエヴァに手を取ってもらいながら共に死んでいける....多分、人として....”

エヴァの言葉に黙って頷いたグルーバーは、金庫の中からアンプルを2本取り出すと、1本を自分で飲み干し、もう1本を妻に与えた。

迫り来る、全ての終末。だが.....

「そうか....これが....」

”これが....死の味というものか”

グルーバー自身驚くほど冷静に、そのことを理解し、受容した。

ただ、木の葉が風に舞い落ちるように。
町角に張られた終演オペラのポスターが剥がれ落ちるように。

静かに彼の心は肉体から解き放たれようとしていた。

こめかみにワルサーP38の銃口を当てながら、グルーバーはついに生きて会うことがかなわなかった友人に向けて呟いた。
「すっかりお待たせしましたな。ヘル・ムンク.......」

....その140へ続く(世界の光と影)