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短期集中連載(笑)

−この物語は、フィクションである−


その138


1934/07/30 ベルリン

・・・・総統府から見下ろす街区は、歓呼の嵐を巻き上げる群集で埋め尽くされていた。
彼は軍服姿で観衆に軽く手を挙げて応えると、歓声は一段と高まった。
彼の最終軍歴である伍長の階級章、それすらが「民衆の側に立つ指導者」として計算されたものだった。

半ば浮浪者のように漂泊を続けたウィーン時代。
伝令兵士として、死を希求するかのごとく弾丸の雨の中を走りぬけた兵役時代。

あれから、20年余りの時が経った。

歴史的瞬間の主役として舞台に立ちながら、かつてシックルグルーバーという名の芸術家志望だった男は、なぜか恍惚を覚えることがなかった。

秘書官が来客を告げた。
部屋に招じ入れられたのは、黒く長いカールした髪と、黒く強い瞳を持つ若い女性だった。
「就任おめでとうございます。そうと...」言いかけた女性の声を、彼の手がさえぎった。「貴女にはその呼び方をして欲しくないのだ、フロイライン・リーフェンシュタール」
「では、なんとお呼びしたらよろしいかしら?」
「そうだな....グルーバーでよい」
「ではヘル・グルーバー、私のこともレニとお呼びください。で、お呼びくださったのは私がお断りした例の件でしょうか?」
「そうだ。貴女の才能あふれる作品を見るにつけ、私はいつも感動を禁じえないのだ。ぜひ曲げて今回の作品をお願いできないだろうか」
「しかしヘル・グルーバー、現に私は宣伝相閣下から忌避されております」
「そんなものは放っておけばよいのだ、フロイライン・レニ。私は退屈な党大会映画や週間ニュース映画など欲しくない。芸術的映像ドキュメントを望んでいるのです。党のその方面の人間にはこれが分からない。貴女は『青の光』でその能力を証明したではありませんか。あの生命の輝きが迸るような力のある映画を、ぜひもう一度見たいのです」
「......」
「それに....」
「それに?」
「......いや、これは私的なことでした。忘れてください。とにかく、私は貴女の映画が欲しい。全ての人民が見られないとしても、私だけのためにでも貴女の作品を撮っていただけませんか」
「......わかりました。ご期待に添えるよう微力を尽くします」

一瞬、リーフェンシュタールは統治者の瞳の中に底の見えない闇を見たような気がして、背筋に悪寒を覚えた。
しかしそれが何なのか....?

強い祖国の復活、画期的な政策の断行、子供好きで陽気な政治家.....
そんな理想の指導者像を全て消し去ってしまうような、暗い影。

”この人は、本当に救世主かもしれない。だけど....”

廊下を出口へと歩きながら、リーフェンシュタールは考え込んだ。
「例えプロパガンダでも、あの人の『影』を取り除くことが私の仕事....それがわが祖国になし得る私の義務だわ....」
そう決意すると、彼女はいつものように背筋を伸ばして歩み去った。

世紀の祭典、いや、聖なる民族の祭典は目前に迫っていた。....

....「これでよし。わが祖国の栄光はこうして永久に記されるのだ」
グルーバー(45)はそう自分に言い聞かせた。
しかし、それが全ての理由だろうか....?

そうでないことは、グルーバー自身が一番よくわかっていた。
最高権力を掌握した今でも、彼はあの『影』におびえているのだ。

彼は側近を呼んだ。
「例の件、進んでいるかね?」
「....はい。現在文化局とも共同して、選定を進めておりますが何しろ対象が膨大な数にのぼります。あと2、3年はかかるかと....」
その側近は抜群の能力を持つ男だ。さきほどのリーフェンシュタールとは政策上の都合で反目しているが、利用価値があるとなればとことん利用する.....そういう冷静な判断のできる人間である。だが.....

男はなぜか、あの日見た絵の中の男にそっくりだった。

それが、無性にグルーバーを苛立たせる。
「急げよ。大衆から退廃を遠ざけ、健全な国民を育成することは急務なのだ」
「......はい。かしこまりました」

幽霊のように、男は応えた。

なにもかも、気に入らなかった。....


1937/06/30 クラーゲリョー
海からの湿った温かい風が、エドワルド(74)のアトリエを通り抜けていく。
7年前に患った右目は、ここしばらく状態が落ち着いている。エドワルドは絵筆をパレットに置いて、安楽椅子のある窓際のテーブルへと移動した。

メイドの淹れてくれた紅茶をすすりながら、南の国から届いた手紙を手にした。

”親愛なるエドワルドへ

度重なる貴方のご援助、感謝に絶えません。

当地の状況は悪化する一方です。
ニュルンベルク法施行後、すでに仲間の多くが、東方へと旅立ったとの情報が伝わっています。彼らの多くは総統閣下の忌避するユダヤ人のために、私としても大変安否が気遣われます。
状況が許す限りこの地にとどまる所存ですが、万が一の時にはご提案の通り当地を脱出してお世話になりたいと思います。

余談ですが、政府監修の『退廃芸術便覧』なるものが発行され、押収された作品が多数あります。
その中にエドワルド、あなたの作品も4点含まれていました。『孤独な人』『自画像』『思春期』『マドンナ』です。
詳細は追ってお知らせいたします。

エルンスト・ヴィルヘルム・ナイ”

「馬鹿が....やせ我慢をせずにいいものを....」
エドワルドは、近くて遠い国の若い友人に毒づいた。
「それにしても....」
愚かなことだ、とエドワルドは思った。あの国にある先の4点は、いずれもセルフコピーだ。己が心血を注いだオリジナルは、現に彼の目の前にある。いや、真贋を問うまでもなく、芸術はその製作者、そして観察者の心の中にある。お互いの波動が共鳴しあった瞬間、それこそが芸術なのであり、それに比べたら作品そのものなぞは取るに足りないものだ。

かの狂気の王は、そのことをわかっているのだろうか....?

「....?!」
そう考えた瞬間、エドワルドは慄然とした。
4点の絵から立ち上る「オーラ」に気づいたのだ。
そして....彼の中の黒い影の存在にも.....



1937/06/30 ベルリン
「少佐殿、こちらの絵画なんですが」
リンツ特務班所属のカイル少尉が上官に尋ねた。
「これか....これはローゼンベルク機関に移管せず、当方で管理せよとのことだ」
上官のミュッケンベルガー少佐は、絵画に一瞥をくれただけで応えた。
「了解しました。しかし....」
「何だ?少尉」
「いえ....確かこの絵画は....」
「いいんだ少尉。これは総統閣下直々のご命令だ」
「はっ」
そう応えたものの、2人とも納得がいかなかった。

これこそまさに『退廃芸術』そのものではないか....?

それをこともあろうに総統美術館所蔵品収集班の我らが持ち出すとは...しかも総統命令だという。

厳重に包装された4枚の絵画は、メルセデストラックの荷台に載せられ、総統府を目指した。

府内に運び込まれた絵画は、特務班の手で総統執務室に運ばれる。
「ご苦労だった。下がってよいぞ」
「はっ。総統万歳」
特務班員がドアの外に姿を消すと、グルーバー(48)はその包みを丁寧に開いた。

中から、あの少年の日に彼を変えてしまった作品たち、その4枚が現れた....

.....宣伝相のおかげで、自分は写実主義の絵画の達人であると、世間一般には知られている。
だが彼が絵筆を持つとき、キャンバスに描かれるのはまさに今彼の目の前にある絵たちの模倣、いや精神の複写だった。
極彩色の虹に封じ込められた、個の死への恐怖と不安と恍惚。
それから逃れようと、疾走した20数年だった。
気づけば、彼はまさに天頂に登った太陽である。国家は飛躍的に強大化し、国民は一つの目標に向かって明るく健康的に邁進している。だが....

だが、それは単に闇の裏返しに過ぎなかった。
彼の奥深く潜む、老人の姿をした闇。

「かの絵と向き合えば、精神的負債を償還できるかもしれない」

特務機関まで設置して、国家を舞台にした美術品狩りを敢行したのも、そうした彼の個人的な動機のためである。

しかし......

4枚の絵を目の前にしたグルーバーは、金縛りにあったように動けなくなった。
絵の中の人物の、暗く不安げな瞳が彼を見据えて、笑ったような気がしたのだ。
「あ、貴方がたは....いったい....?!」

その中の一つが薄く笑った....ように見えた。
「....はじめましてというべきかな?」・・・・

....その139へ続く(人間の山)