変な話Indexへ戻る

短期集中連載(笑)

−この物語は、フィクションである−


その137


1908/09/15 ウィーン

・・・・9月の爽やかな青空の下を、19歳の青年は失意を抱きながら歩いていた。
シュテファン寺院の前を抜け、ドナウ川を見晴かす河岸に彼の下宿があった。
部屋のドアを開けると、いきなりとびっきりの笑顔が彼の目に入った。

「やったよ!グルーバー!!」

同居人のクビツェックが彼の手を取り、激しく上下に振った。
「あぁ....絶対だめかと思ってたんだけどなぁ....!!今でも信じられないよ!来週から早速セミナーが始まるらしい...もう待ちきれないよ!!」
どうやらクビツェックは、志望の音楽学校に合格したらしい。
「そうか....良かったな。おめでとう」
自分の本名を省略して「グルーバー」と呼ばれた青年は、複雑な笑顔を返した。
「あぁ....自分のことばっかりでごめんね....君は....?」
グルーバーは黙って肩をすくめてみせた。

「そ、そうか....残念だったな」
「いいさ。また春もあるし」
「そうだな。君のことだ、きっと次は大丈夫だよ」
「ありがとう。努力してみるよ」
グルーバーは笑ってみせた。

クビツェックは、この街に来て以来の、たった一人の友人だ。
そのクビツェックが、自分を置いて先へといってしまう.....

”みんなそうだ....僕を置いていってしまう....”
グルーバーは、昨年母のクララを亡くした時と同じ、心の痛みを覚えた。

それは....人の死、そしてクビツェックとの友情の死....グルーバーには同じもののように感じられた。
ふと、故郷の学校の図書館で見た、あの絵を思い出した。不安に苛まれ、世界の終末を告げるかのごとき慟哭を上げる人物の肖像....

あの日から、グルーバーの描く絵がすっかり変わってしまった。
しかしそれがなぜなのか、自分でもわからない。

不意に、グルーバーの心に深い闇の世界が口を開けた。
闇の向こうで、黒いカンバスに向かって、切り裂くように極彩色の虹を描きつづける老人の姿が浮かぶ。
「まただ....誰なんだ....あれは....?」
それは昨年来、彼を悩まし続けている幻想だった。

夜更けに、グルーバーは少しばかりの手荷物を持って、下宿を出た。
どこでもいい、自分が何者でもなくいられる場所が欲しかった。



1902/07/30 オースゴールストラン

「まただ....誰なんだ....あれは....?」

高熱にうなされながら見た夢。
エドワルド(39)はまだふさがらない傷口の包帯をぼんやり眺めながら、右手で額の汗をぬぐった。
今までそうしてくれた、トゥラの姿はもうない。彼の左手指を銃で吹き飛ばし、姿を消してしまった愛しい人。
悲しげな表情で闇に消えていく彼女の傍らで、屹立する黒い影の青年。

それはまるで、いまだ繁栄をつづけるこの世界に忍び寄る闇を象徴するような姿だった。

この時期、彼に近づく全ての人が、彼を監視し拘束する牢獄の番人だった。たとえそれが、近しい長年の友人、そして生涯を捧げてもいいと思った愛する人でも。

ウィーンの学者が最近発行した本によれば、エドワルドの精神状態は遠く幼児期の性的形質獲得に起因する問題だと、知り合いの医師ヤコブソンが言っていた。

エドワルドはヤコブソンを尊敬し、友誼を感じてもいたが、彼の心の闇はもっと何か、別の存在によってもたらされていることにも気づいていた。

それが、あの「黒い影の青年」.....

しかし、それが誰なのか。
エドワルドにはわからなかった。

わかっているのは、夏が彼の許から去っていってしまった....その事実だけだ。
額縁代にもならない絵を売っては仲間とはしゃいだ、クリスチャニアの夏。 反自然主義芸術を語らった、あのベルリンの居酒屋での夏。
桟橋に集う若く快活な少女たちを描いた、あの海辺の夏。....

きらめく北大西洋からの西風を頬に感じながら、エドワルドは深い孤独の闇の中にいた。・・・・

....その138へ続く(Asgardstrandの夏)