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短期集中連載(笑)

−この物語は、フィクションである−


その136


1944/01/23 エーケリィ

柱時計の鐘が10鳴った。
この季節では、まだ太陽は地平線の彼方にある。

エドワルド(81)は1人薄暗い部屋のベッドの中で苦しげに息をつきながら、不思議に自分の体も心も軽くなっていくのを感じていた。

第三帝国に占領された首都から30キロほど離れたこの辺りでは、時々砲声が聞こえてくる程度で、それ以外は戦時下とは思えないほど静かである。近頃の騒ぎといえば、彼がこんな羽目に陥る原因となった波止場の爆発事故ぐらいだ。おかげですっかり風邪をこじらせてしまったのは不覚だったが。

それにしてもやたらと昔懐かしい人の姿が目に浮かぶ。カトリーネ母さん、姉のソフィエ、不幸にさせてしまった愛しいトゥラ....そして....
「そうか....これが....」

”これが....死の味というものか”

エドワルド自身驚くほど冷静に、そのことを理解し、受容した。

病と狂気と死の黒い天使の群が彼の揺藍を見守っていたとしか思えない、彼と彼の周囲の人を次々と襲った悲劇。彼の意識はその都度恐怖に戦き、それゆえに死への不安と傾斜を深めていった。

そんな自分に苛立ち、無知と信じた友人たちを責め、気が付けばさらに深い不安の闇にいる....

しかし生涯彼が恐れ続けたものを初めて自身の間近に見た時、それは決して恐怖の存在でも、悲哀の対象でもなかった。

ただ、木の葉が風に舞い落ちるように。
町角に張られた終演オペラのポスターが剥がれ落ちるように。

静かに彼の心は肉体から解き放たれようとしていた。

意識の彼方で、直立不動のままのあの男の姿がこちらをうかがっている。
どうやら彼に少し先んじることになりそうだ。
「さらばだ、わが友....。願わくば君が人として生涯を終えんことを」

エドワルドは静かに目を閉じた。



1908/09/15 ウィーン

正門の前に建つケンタウロス像の前を、19歳の青年は憤慨しながら歩いていた。

これで2度目の不合格だ。
前は実技試験までいったが、今度は一次試験で門前払いだ。創作もさせずに振り落とすとは、言語道断だ。
「....君の作品は....そうだな、独創的ではあるが技術的に課題も多いし、表現する世界観がぼやけている。まずは人物のデッサンからきちんと修得すべきであろうな。全てはそれからだ」
すでに心の中でしたり顔の試験官の首を、彼は何度締め上げた事だろう。

....しかし憤怒の炎を上げても、それで不合格が合格に変わるわけではない。
とりあえずは、友人の結果も気になる。彼は下宿に戻る事にした。

「....変わった男でしたね。彼は」
美術アカデミーの窓からその青年を見下ろしながら、若い講師がつぶやいた。

「そうだな....彼の持つ思想、いや、そこまで大した物じゃないな、こだわりというのがどうも私には危ういものに思えてな」彼の師匠に当たる試験官の教授が応えた。「それに....」
「それに?」
「はっきり言うと私は、彼の作品が....気持ち悪いのだ」
「そんな....」

教授の言葉を冗談に取った講師は、真顔の教授を見て笑いをおさめた。

「技術の未熟さと彼には説明したが、彼の絵はまるで....あのクリスチャニアの変人の作品と同じ匂いがするのだ」
「なるほど....」

講師も、あの病的に死に傾斜した世界を描く画家の作品を思い浮かべた。

見たくもないのに、誰しもが抗し切れず魅入られてしまう。
そんな絵画世界と、青年の画風、そして面接での主張が重なって感じられた。

そんな青年の為人を直感し、アカデミーから意図的に排除した教授は、やはり人並みはずれたセンスの持ち主だったといえよう。

だが、この時点でその青年の未来まで予見したわけではなかった。・・・・

....その137へ続く(悪の華)