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短期集中連載(笑)

−この物語は、フィクションである−


その122

無表情な顔の群れが高原望美(32)の視界の上部を通り過ぎていく。
下から伺い見るような望美の視線は、だが彼らを見ていない。
のっぺりとした都会の薄っぺらい青空が、片隅に見えた。

望美も彼らと同じく、能面のような笑顔を浮かべながら、
「おねがいします、おつかれさまです、おねがいします、おつかれさまです、おねがいします、おねがいします、おつかれさまです、おねがいします、おつかれさまです、おねがいします、おつかれさまです、....」
と電子音声に似たリピートを繰り返しながら、大昔のゴクラクチョウの玩具みたいに腰を90度屈曲し、そのモノを手渡ししていた。

見た目にオーバーなアクションは、望美のオリジナルだった。入社したときから、この方法で同期の皆よりも多くのモノを捌いてきた。
そして今、同期は一人も残っていない。みんな寿退職で幸せな家庭を築き、望美は相変わらずあとから入ってきた若いコ達と一緒に駅前に立って腰を折り曲げる日が続いているのだった。・・・・

・・・・「あ、あの....」
「ありがとうございま....はい?」
思いがけず声をかけられたのに、機械的な反応をしてしまって一瞬うろたえ、返事の最後ではそれでも営業スマイルを取り戻していたのはさすがである。
「すみません....この近くでおたくの店舗というとどちらになりますか?」
尋ねてきたのは、少し痩せ型の、ナイーブな雰囲気が全身に表れた青年だった。
望美より3、4歳年下だろうか。

「ああ、それでしたらこちらの道をまっすぐ行っていただいて....」
言いかけて望美は、青年の何かいいたげな表情に気づいた。
「あの....私この辺の地理に詳しくなくて....大変失礼ですが案内していただけないでしょうか」
「ええ、結構ですよ。さあどうぞ」
いつもより更に腰を深深と曲げて、望美は店の方へと歩き出した。

「はい、こちらでございます」
「あ、あの....」
「はい?」望美は笑顔を返した。
「い、いえ....どうもありがとうございます」
青年は店の中へ入っていった。

元の場所に戻り、また望美は腰を曲げ続けた。
箱の中のモノは、もうすぐなくなりそうだった。
「あ、あの....」
さっきの青年だった。
「あ、ご利用ありがとうございます」
また深々と望美はお辞儀した。
「いえ、すみません....契約はしなかったんです」
「え?」
「ただ....ただ貴女とお話したかっただけなんです。あの、これを....」
「あ、え、えっと....」
青年はとまどう望美に小さな包みを渡すと、一礼して背を向け歩き出した。

帰宅途中の電車の中で、望美はその包みを開けてみた。
そこには一通の手紙と、古い真鍮製の鍵が入っていた。

”いきなり失礼かとは思いましたが、私の気持ちです
 もしお時間があれば、日曜日のお昼頃『Agora blanche』で
 おまちしております
 温海貴洋”

そういえば若いコ達の間で名前が挙がっていた、会員制のガーデンテラスだ。会員証の代わりに、入り口の鍵が貸与されるのだ。そこは都心の中の静かなデートスポットとして知る人ぞ知る名所になっている。

突然のことに頭の整理がつかないまま、望美は手の中の鍵をぼんやりと眺めていた。
それから日曜日までの毎日、温海というその青年は毎朝望美の前に現れた。
相変わらず深々と腰を折り、営業スマイルの望美だが、温海にだけは違う笑顔を向けるようになった。温海も静かに微笑んで会釈を返していく。

そして日曜日。
『Agora blanche』の古い門の前に着いた望美は、そこに佇んで微笑む温海を見て、にわかに胸の高鳴りを覚えた。
望美の鍵で門を開け、中に入る。
静かな庭園の道を歩く二人。ふいに温海が望美の手を握った。
それは細く繊細で、だが暖かな手だった。

テラスで遅い昼食を取り、お互いのことを話した。
望美はもう何年も前から出会っていたような感触に包まれた。

「....さて、これからどうしましょうか」
庭園の木陰のベンチに座りながら、温海が言った。
「....」
「何かご希望があれば、おっしゃってください」
相変わらず実直な温海の言葉だった。
少しうつむくと、望美は頬を少し赤らめて答えた。

「.......ひざまくら」

温海は少し驚いたようだが、うなづくと望美の肩に手をかけ、その身体を自らの膝にいざなった。

身体を伸ばして空を見上げるなんて、いつ以来だろう...?

望美の視界には澄み渡る青空と、温海の笑顔だけが映った。

....その123へ続く(放火強盗殺人犯版はプレミア)