短期集中連載(笑)![]()
−この物語は、フィクションである−
その95
鉛色の明けの空から、今にも雨が落ちてきそうだ。人影の内半島の小さな入り江には細かな波がさざめき、いく夏を惜しむかのようである。
令妙子(21)が水鳥のようにその躯を波間に浮かべるのを大出聖也(20)はただ黙って見守るしかなかった。
聖也が妙子に会ったのは、ターミナルに程近い公園だった。大学からの帰り、公園に面した通りを歩く聖也の耳にかすかに聞こえてきたのは、つるむでもなく、そこかしこで内輪だけの盛り上がりをみせるストリートミュージシャンたちから更に離れて、ひとり何の楽器も持たずに歌う妙子の声だった。
'hm...h....hm.......hm..'
それは不思議な歌声だった。決してうまいわけではない。詞も不明瞭だ。だが旋律の所々にどうしようもないほど惹き込まれてしまうようで、聖也は足を止めたまま、妙子のそばから動けずにいた。
妙子はそんな聖也に気づきもしない様子で、深みをましていく夕空の蒼を凝視するように動かないまま歌い続けた。
やがて消え入るように歌い終えると、妙子は初めて聖也をみた。
「・・・聞いてたの?」
少し非難の混じったような意外な問いかけに、聖也はドキリとした。
「う、うん・・・なんかすっげーよかったから・・・」聖也はありきたりのお世辞めいた言葉しかでてこない自分の表現力の貧しさを呪った。「・・・いつもここで演ってんの?」
「演ってる?・・・あぁ、そうね。他に場所もないし」
妙子はそう答えて薄く笑った。「それに誰かに聞かせるために歌ってるわけでもないし」
「そうなの?オレなんかけっこうキちゃったりしてるけどねー」
「アタシのまわりでは"アイツのは魔性の歌だ"って評判みたいだけどね」
聖也から視線をそらしながら、妙子は言った。諧謔を飛ばした風でもなく、かといって自嘲しているようにもみえない。
「・・・ あ、でもさ、それって魅力的だ・・って意味なんじゃないの?」
「だといいんだけどね・・・あたしの場合はそのまんまね。あなたの他にも何人か聞いてくれた子がいたけど、みんな車にはねられたり、どこかへ失踪したりして戻ってこなかったわ」
ただ淡々と事実を語っているような口調の妙子だった。背筋に薄ら寒いものを感じながらも、聖也は彼女が電波系なのだと思うことにした。
「偶然じゃないのー?なんなら俺が実験台になってやろうか?これからもここに来るんでしょ?」
また彼女の不思議に素敵な声を聞きたい・・それに彼女自身にも・・・・
「ふーん・・・・」妙子は珍しいものを見るような目付きで聖也を見た。
「ま、あたしはどうせこの道しかないからいいんだけどね・・・物好きなひともいるもんね」
謎めいた言葉を残して歩道の縁石から腰をあげると、妙子は霧のように噴水の向こう側へと姿を消した。
それからしばらくは、観客が聖也ひとりのライブが続いた。妙子の言葉が気にならないと言えばウソになるが、今のところは聖也の身に特に変わったことは起きていない。妙子も少しは打ち解けてきたのか、聖也に語りかけてくるようになった。
「メロディーラインって300年ぐらい前に出尽くしていていて、以降にできた曲はすべてどこからかのパクリっていうでしょ?あれって人類が与えられた旋律が限られてるからなの」
「・・・・与えられた?」
「そう。神様から与えられた・・・・っていうと語弊があるかな、宇宙のなかには人の心を動かす『特異旋律』というのがあって、時代を越えて残る名曲とよばれるものには、かならずといっていいほどそのfragmentがちょっとだけ含まれているの」
あいかわらず電波な妙子に苦笑しながらも、最近は少し慣れてきた聖也だった。
「へぇー、じゃ妙子はその『特異旋律』ていうのが判るの?」
「うん・・・そうかな。知ってるっていうか」
「じゃ、それを目一杯使った曲作れば?超ブレイク間違いなしじゃん」
「そうねぇ、昔はね・・・・でも・・・」
「あ、あのコたち来たよ」
昨日からギャラリーに加わった女の子がやって来たのに気をとられて、聖也は妙子の途切れた逆接の先にある陰影に気づくことができなかった。
妙子を取り巻く人の環は日を追って大きくなり、聖也はその環の外から遠く妙子を眺めることが多くなった。
観衆の中には、聞き終えて後に感極まって泣き出すコも何人かいたが、妙子は相変わらず淡々と、周りに誰もいないかのように歌っていた。
そしてある日、妙子の姿が公園から消えた。
しばらくして、代わりに駅ビルのボードに巨大な彼女の写真が現れた。
妙子のデビューアルバムは驚異的なセールスを記録し、「ニューエイジの新たな旗手だ」「いや、もはやこれは彼女が創り出した新しいジャンルだ」などと多くの評論家が絶賛した。
妙子の成功を目にしながら、聖也は複雑な気分だった。「Myアーティスト」がメジャーデビューしてしまったさびしさ?・・それもある。だがそれより・・・
「妙子は今、彼女が思うように歌っているのだろうか?」
聖也の心配は現実のものとなりつつあった。予定された2ndシングルがリリース当日になっても発売されず、1stツアーは妙子の体調不良を理由に度々延期された。音楽メディアでの露出が減り、人気俳優とのゴシップが囁かれるようになった。
そんなある日、妙子からの手紙が届いた。
中には、延び延びになっていたライヴのチケットと、
「終ったら、海が見たい」
とだけ書かれた手紙が入っていた。
当日、聖也は買ったばかりの中古のFusionにメットをひとつ入れ、会場へ向かった。
場内はすでに満員だった。
聖也は人の群れをかきわけながら、招待された席についた。
少しやせたようにみえる妙子が現れると、場内は割れんばかりの歓声につつまれた。だが曲が始まると、客席は水を打ったように静まり返る。歌の終り、大歓声、そしてまた静寂・・・・それは最近の、最初から総立ちのライヴを見なれた目には不思議なコンサートだった。
十何度目かの歓声の波が静まった。妙子の視線が何かを語りかけるように聖也をとらえた。
「・・・これが私からみなさんへ、最後の贈物です」
ア・カペラで静かに妙子は歌い始めた。
'hm...h....hm.......hm..'
「・・・・・・!!」
聖也の心に衝撃が走った。あの日、あの場所で聞いたメロディ・・・いや、あの時よりも彼の心を掴んで離さない。身動きすらできないほどに・・・・そうだ、これが妙子の言ってた『特異旋律』なのか・・・・聖也はまんじりともせず、いやできずに、静かに歌う妙子をただ見つめるだけだった。
・・・あの日と同じように、消え入るように妙子の歌が終った。はっと我に返った聖也が目にしたのは、彫像と化した無数の観衆たちだった。さっきまで聖也の近くの席でふんぞり返っていた、あの妙子と噂になっている俳優も、涙と鼻水とヨダレを垂れ流したまま硬直している。バンドのメンバーやスタッフですら、持ち場を死守するかのごとく機材と一体化していた。
巨大なホールの中で唯一、聖也以外に動く人影が、惨劇を見下ろすステージの上から彼に語りかけた。
「・・・・行きましょう」
妙子がそのふんわりとした柔らかな躯を押しつけてくるのを背中越しに感じながら、聖也はスクーターを走らせた。会場から湾岸道路を抜けてその小さな入り江にたどり着くまでの長い間、2人は無言だった。
「・・・少し・・・寒いね」
まだ暗い海岸に下り、聖也のすこし前を歩いていた妙子がつぶやいた。
聖也は無言のまま、妙子の肩を抱いた。
何か話そうとして切り出せないまま、2人は夜の海を眺めた。
聖也がようやく妙子に語りかけたのは、空が少し明るくなりはじめた頃だった。
「あのさ・・・さっきの・・・」
「そう。あれが『特異旋律』の全部。そしてあれがホントのあたしなの・・・・本当いうと私、他の観客なんてどうでもよかった・・・初めてあなたが歌を聞いてくれた時から判ってたの・・・二千年前、あの暖かな島で逃したあなたさえ手に入れることができたら・・・」
「妙子・・・」
言葉につまる聖也の横から離れながら、妙子は続けた。
「でも・・・・でもやっぱりダメだった。あの時と同じね、あなたの身も心も奪うことはできなかった・・・あたしにはもう、あの時と同じ道しか残されていないの・・・」
「・・・妙子!!」
聖也の目の前で静かに海に入っていく妙子。その下半身が次第に不明瞭になり、いつの間にか水鳥の羽に包まれていた。
「さようなら・・・あなたにだけはこの姿を見られたくなかった・・・」
「なんだよ・・・全っ然わかんないよ・・・俺はいつだって妙子のことを・・・なのに・・・・なんだよそのカッコ、何のコスプレだよ・・・あぁ、そうか、タルーラだ。”ごきげんいかが、タルーラ?”なんちて、あは、は、はは・・」
”ちがうでしょ、って・・・”
場違いな中村トオルに、妙子は泣き笑いの表情を一瞬浮かべたようだった。だが、それもボンヤリと薄れ、灰色の波の間に消えていった。
聖也は、ひとり海岸に取り残された。
妙子の魔法が消えた後も、いや消えたからこそ、聖也は動けずにいた。