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短期集中連載(笑)

−この物語は、フィクションである−


その81

地下鉄は乗換駅に近づいた。車内は乗客の持ち込む傘のせいで湿った空気が充満している。
竹岡満(27)は先頭から2両目の車両に乗り、となりの車両の2つめのドアに目を凝らしていた。
やがて電車がホームに滑り込み、ドアが開くと乗客は都心を西へ向かう路線へといっせいに駆け出した。
その中に、白いサマーセーターに黒のタイトスカート、そしてその上にワインレッドのレザーのレインコートを着た彼女の姿もあった。
竹岡は慌てて電車を下り、彼女の工芸品のように細くしなやかな脚の後姿を追った。

ここまでは予想通りだ。彼らが勤務するオフィスの最寄駅からこちらの路線の先頭車両に乗ったとすると、この乗換駅で乗り換える可能性が高いことは読めた。あとはこの先、どのターミナルで乗り換えるかだ。幸い手元のパスネットは度数がたっぷり残っている。JR以外だったら切符を買わずに追跡が可能だ。JRならSUICAで乗っていけばよいし....

竹岡は今後の追跡予定について思いをめぐらせながら、頭の片隅からどうしてもある深刻な疑念を振り払うことが出来なかった。

”これって、ストーカーって言うんじゃないか......?”

....竹岡が彼女を意識し始めたのは、窓口業務を担当するようになってからである。彼の勤める特定郵便局は、都心にあるビルの2階に入っている。そのフロアにはいくつかのオフィスが雑居しており、その中のひとつに彼女の勤める「笹口建設」があった。

笹口建設の社員は、竹岡の知る限り3人しかいなかった....というのは、エントランスからの階段を登って笹口建設のオフィスに行くまでに、必ず彼の郵便局の前を通らなくてはいけないのだが、いままでに竹岡が見たのは彼が「ダンディ社長」と呼んでいる50半ばの渋い男性、20台前半に見える「若ェもん」、そして「美人秘書」と呼んでいる年齢不詳のその彼女だけなのである。当然彼らがどういう役職なのか、またどういう仕事をしているのかなどはまったくわからず、「社長」「秘書」というのも単なる竹岡の想像だけなのである。

「社長」は割と気さくな人で、たまに窓口へ用を足しにきては竹岡と二言三言話していくし、前を通るときは笑顔で挨拶していく。だが「秘書」の方は伏目がちに入口前を通り過ぎるだけで、ほとんど言葉を交わしたことがなかった。

”あの『秘書』、こないだ『社長』とタメ口聞いてたよ”
”そうそう、お昼のラーメンの汁捨てに行くのも『社長』だし”
”実は『美人社長』と『ダンディ秘書』なんじゃない?”
”そうそう、それに意外と化粧厚くて肌が荒れてるよ。あれ、結構なトシね”
”着てくるものもキャバクラ系だしね”

口さがない彼の同僚女性は彼女に結構辛い採点をしていた。だが....

”でも、綺麗な脚よね....”

結局それで、全てがチャラになるのであった。

竹岡は何度か「社長」と「秘書」が連れ添って帰るのをビルの玄関先で目撃している。だが彼らは玄関を出るとすぐ別れて「社長」は近くの立体駐車場へ、そして「秘書」は竹岡と同じ駅の地下鉄のホームへと吸い込まれていくのであった。

”ああいう人って、どんな暮らしをしてるのかな....?”
ある日、首都高速高架下の道を、彼女の少し後ろを歩きながら、竹岡はそう思った。
そして気がつくと、いつもは乗らない営団地下鉄の改札を通って、彼女と同じホームに少し離れて立っていた。
”別に彼女を特定の異性として意識しているわけではない。あの生活感の無い女性の私生活を、ちょっと覗いてみたいと思っただけだ”....そう竹岡は自己正当化にもならないようなことを自分に言い聞かせた。

車端の窓から立ち客の合間を縫って見え隠れする彼女は、電車の中でもいつもと変わらず背筋を伸ばして端正に坐っていた。コートのすそからのびる黒いストッキングの脚が、竹岡をドキドキさせた。
「やはり物体として美しいものはなんと言おうと美しいのだ」....竹岡はまた自分に言い訳をした。

JRと私鉄が共に接続する乗換駅が近づいてきた。集中力の持続に難があるのが竹岡の欠点であるが、ここではそれが致命傷となった。

数駅前から乗り込んできた客で先頭が満員になり、彼女がまったく見えなくなってしまったのだ。そのためあれだけ彼女に注目していながら、「とりあえず人が少し引けるまで待とう」などと考え、その駅で発車ベルが鳴る頃になって、閉まりかけたドアの向こうに多くの人並みとともに足早に歩いていく彼女の後姿が見えた。

”....しまった!”
竹岡はあわてて地下鉄を飛び降り、彼女の姿を追った。
ここで予想もしないことが起こった。
彼女を見失うまいとあまりに速く追いかけたのと、ラッシュの人の流れが相まって、竹岡は一気に彼女の真横まで押し出されてしまったのだ。
これでは見知った間柄だけに、下手をすると相手に追跡していることを悟られてしまう。
咄嗟に竹岡は顔をそむけ、近くの丸い柱の陰に隠れた。

しばらくの後、竹岡は様子をうかがった。
しかしその僅かの間に、彼女の姿は見えなくなってしまった。
「やられた....」
竹岡はJRと私鉄の改札の間の連絡通路で、人並みの中に茫然と立ち尽くした。

翌日。
竹岡は「社長」と「秘書」が、揃って窓口前の廊下を通過するのを見た。
「社長」がいつものように笑顔で会釈する。
竹岡も会釈を返した。
「秘書」はいつもの通り、少し伏目がちに会釈する。
いつもと変わったことは特に無い。
少し胸をなでおろす竹岡であった。
「よし、今度はあそこから先の追跡だ。偶然を装って声をかけてみるという手もあるな....でもカレシとかいるのかな?やっぱあの『社長』とかかな...?」
竹岡の楽しげな空想は、あらぬ方角へと枝葉を伸ばしていった。

その日の笹口建設にて。
「大佐、本国からの定時連絡受信しました」
「ご苦労、趙玉鈴同志。こちらからも『特に異常なし』と伝えてくれ」
「そのことなんですが大佐....一件ご指示を仰ぎたい事が」
「なんだ?」
「昨日私に尾行がありました。人物を特定するためしばらく泳がせたのですが、その結果、あの隣に勤務する人物であることが判明しました」
趙玉鈴少尉は書類を李玄鐘大佐に手渡した。
「『竹岡満(27)』..あぁ、奴か....『...特定郵便局員・東京都在住、勤務5年、特定の政党、団体への所属認められず』....なるほど、これを見る限りは人畜無害の奴のようだな」
「ですがこの時期に私を尾行したとなると....ひょっとするとクリーンアップ(履歴の消去)を受けたエージェントかもしれません」
「そうだな。可能性は摘んでおくに越したことは無いな」
「私もそう考えます。エリミネート(消去)が妥当かと」
「わかった。方法は君に任せる。本国には私から伝えておこう」

「あのーすみません...総合口座を開きたいんですけど、わからない事がありまして....教えていただけます?」
竹岡の窓口に、魅力的な笑顔の「秘書」が尋ねてきた。

「は、はい!ど、どうぞこちらのご相談窓口へ....」






....その82へ続く(目の前にあるレインコート...)