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短期集中連載(笑)
−この物語は、フィクションである−
その80
吹抜けのホールを見下ろすエレベータのドアが開き、木内正美(35)は1階フロアに出た。彼女の職場は2階から上層階のいくつかを占める某女子医大の付属病院である。
"22:00 at Hilton F.E"とだけあるメールが正美の携帯に入ったのは、当直医への申し渡しを終えてすぐのことだった。お互い多忙な身ではあるが、彼が信濃町の大学病院へ異勤になってからしばらく連絡が途絶えていた。
「いまさら....?」
不安と諦念相半ばする感情がよぎりながらも、胸の高鳴りを抑えることが出来ない正美であった。
Dr.Ferdenand Engelsが、彼女の所属する第2内科に客員教授として招かれたのは3年前のことであった。すでに稀少となった「独語をマスターしている医師」として、正美はFerdenandの助手に選ばれた。あくまで冷静で、あらゆる現象を理詰めで捉えようとするかれの姿勢に、最初正美は尊敬の念を抱き、そしてやがてそれは敬愛から恋愛感情へと変わっていった。それから一年足らず、正美の思いを彼が受け止めるのを阻むものは何もなかった。ただひとつ、その後本国からやってきた彼の妻子を除いては。
彼女の理性が、2人の関係を不合理なものとして拒む。だが彼の腕の中でもう一人の正美がその理性を狂わせるのだ。
そんな正美のもつれた想いが、一日、彼の肩口に彼女の八重歯を突き立てさせた。
汗にまみれた事の後、正美はシーツに素肌を埋めながら、背中で彼がしきりに左肩を気にしている気配を感じていた。
彼との関係に少し疲労を感じた、それがはじめての瞬間だった。
「彼は私を避けている」そう感じながら、それでも正美はかのホテルへ足早に急いでいた。
ふと、三角ビルの横を通り抜けようとして、場違いな灯りが周囲を照らしているのに気が付いた。そちらに目を向けると、深夜営業のドラッグストアがそこにあった。
「・・・あれ?ここコーヒー屋さんじゃなかったっけ?」正美は首をかしげた。
彼女の勤務する病院の処方箋を受ける、いわゆる「門前薬局」たちは、夕暮れとともに早々に店じまいしてしまう。しかもこの店は日用雑貨も扱う、いわゆる「ドラッグストア」だ。こんなところで商売になるのだろうか....?
ふと正美は、男性の避妊具の手持ちがないことに気がつき、そして苦笑した。「ああ、こういう需要もあるのね....」ビルの目の前は京王プラザホテルである。
そういう関係になって以来、いつも用具を用意するのは正美のほうだった。別に恥ずかしいとも思わない、必要な対策を必要に応じて行うだけだ。そう割り切っていた。
ストアの中はこぢんまりとした、だが意外に整頓されて清潔そうなつくりだ。何かしら甘やかな香りが漂っていて、正美の心をやわらげていくようだ。
"えーっと、これなんだっけ?...そうそう、『イランイラン』の香りだわ"
気が付いてまた正美は苦笑した。インドネシアで新婚初夜のベッドに敷き詰められるという花。私には一番似つかわしくない香りだ。
あらかじめラッピングされたゴム製品の小包装を手にとると、レジでなにやら帳面につけていた小太りの白衣の男に差し出した。
会計を済ませてお店を出ようとすると、男が声をかけた。
「あの、よろしかったら、くじを引いてってください」
「....あ、いえ、結構です」
「まあそうおっしゃらずに、どうぞどうぞ」
「そうですか....では」男の強引さに少し押されながら、正美は穴のあいた赤い箱に手を突っ込んで、くじを一枚つまんだ。
「・・・・何これ?」
思わず正美は男に質した。
「あら、大当たりですね。おめでとうございます....意外とよく当るんですよ、これ」
「はぁ....何かもらえるんですか?」
「いえ、何も」
「え?何ももらえないんですか」
「でもこのキーワードに当りの鍵があるそうですよ」
「は、はぁ....そうなんですか」
「そうなんです。向かいのホテルに台湾とか東南アジアから来る人が『そのとおりだった』って喜んでくれてますよ」
「・・・そうですか、ありがとうございます」
わけのわからないまま正美は礼を言って店を出た。
"大当たり"....ひょっとして何かあるのかしら?まあそんなことあり得ないけど。
正美はビル脇の階段を上って交差点を抜け、ホテルの受付を訪ねた。
「すみません、予約した木内正美ですけど」
彼女は言った。もちろん自分が予約を入れたのではない。いつも彼が正美の名前で予約を入れ、先にチェックインしているのだ。
「お待ちください....1751号室ですね、こちらがカードキーでございます」
「え?...あの....家族のものは来てませんか?」
「いえ、まだどなたも」
正美は急に不安になった。
「そんなはずは....Ferdenandという者が来ていませんか?」
「あ、失礼いたしました。Ferdenand様からこちら木内様宛にメッセージをお預かりしております。どうぞ」
「....ありがとうございます」
胸の中に暗雲が広がるのを感じながら、正美はすぐメッセージを見るのが怖くて自分の部屋までたどり着き、ベッドに腰掛けながらそれをそっと開いた。
"To Masami
I'm sorry.
I'm too busy for my conferrence to meet you today.
I'll call you later. My Dearest"
F.E
正美の頬に涙が伝った。
メッセージで顔を覆ったまま、正美は背中からベッドに倒れこんだ。
いくら鈍感な自分でも、最後の一行を見ればそれとはっきりわかる。
"もう電話しないでほしい"そう裏で言っている、それは別れの言葉だった。
「なによ....面と向かって言ってくれればいいじゃない....私だってわかってたんだから...そのつもりだったんだから.....なによ....ホント『大当り』だわ...」
一人声を立てずに泣きながら、すこしずつ肩の力が抜けていく気がした。
....それから1時間の後、正美は三角ビルの隣にある高層ビルのエレベータに乗っていた。
あれからシャワーを浴び、少し自分の心が軽くなった気がする。
さてそうなると、なんだかあの他愛のないスピードくじが妙に気になってきた。
「希臘....ギリシャ。古代...かしら、最上階っていうと大体レストランかラウンジか....って、あそこのことかしら?消灯って言うとたしか東京タワーが見えたはずだし...」
正美は以前別の教授に連れられて、この高層ビル最上階のラウンジにきたことがある。その時はシルクのゆったりとした古代ギリシャ風のホステスのコスチュームといい、俗悪な趣味丸出しの調度といい、彼女の趣味とは正反対の趣向に固まってしまっていたのだが、「今日はあんな店に行ってみるのも馬鹿っぽくていいかも....」とふと思った。
窓に面したラウンドソファに腰掛けながら、正美は目の前に遠く浮かぶ東京タワーを眺めた。確かこの時期、消灯は11時のはずだ。その時に何か起こるのか....?
「....失礼、失礼します」
背後の声に正美は振り向いた。
「あ、あの、ご一緒させていただいてよろしいでしょうか?」
そこには、パツパツの黒コムサに身を包んで「もうイッパイイッパイ」という感じの、先ほどのドラッグストアの男が立っていた。
正美は、瞬時に経緯を察知した。
「・・・・・・・・ぷっ・・・・!!」
彼女は、思わず吹き出した。
そして周りの白い眼も気にせずしばらく笑い転げた後、彼を隣の席に招き入れた。
時計の針は10時57分を指していた。
....その81へ続く(薬指のリングより....)