短期集中連載(笑)![]()
−この物語は、フィクションである−
その77
片野宏之(25)がその海沿いの町に着いたのは2時過ぎだった。
気だるい海風が駅前の家並みの間を抜けて、ロータリーへと流れ込んでくる。本来なら今すぐ波打ち際まで駆けていきたいところだが、腹部の鈍痛が彼の出足を挫いたようだ。どうも1時間ほど前についた途中の駅で、立ち食い蕎麦の後にキューッといったビールの大缶が効いたらしい。
長旅の途上である。とりあえず保険証は持ってきた。彼自身医者ではあるが、彼程度の研修医では薬が無いと何もできない。薬局に行って一般薬を買うのもばからしい。せっかく保険が使えるのだから、医者にかかるとしよう。
海岸に向かう駅前通に「いにしえクリニック」はあった。地方にありがちな「なんでも屋開業医」のようだ。これでもないよりはマシだろう。
片野は高度経済成長期に建てられたようなコンクリートとサッシの塊の建物の玄関を入った。入口のすぐ左が受付で、保険証を渡すと正面突き当たりの待合所で待つように言われた。
大きなリサキュレータが天井で回っている。午後の診察はまだのようで、何人かがそれぞれ所在なげに座って待っていた。
診察室の入口が開き、看護婦がカルテを読み上げた。
「さかきばらさ〜ん、さかきばらいおりさ〜ん」
"・・・・え?"
はっと看護婦の方を見やった片野の前を、少し暗い表情の20歳前後の青年が横切って、診察室に入っていった。
「ど、どこかで聞いたような名前だな....」
だがよく考えてみると、「榊原」と言う名前は珍しくないし、あの怪物長寿番組の補完番組だって結構見てる人がいる筈だから、そういう人がいてもおかしくはないだろう。
「さかきばらいおり」君が入っていった時と同じ少し暗い表情で診察室から出てきた。受付でソラナックスを受け取ると、消え入るように玄関を出ていった。
「おがわさ〜ん、おがわしょうせんさ〜ん」
"・・・は?"
またしても聞いたことのある名前だ。思わず片野が周りを見回すと、物腰の柔らかそうな紳士がゆっくりと腰を上げるのが見えた。
「お、おじいさんでもないし....珍しい名前だな」
「小川」はともかく、「しょうせん」ってどう書くんだろう....?まさかあの....?いや、そういう人も世の中にはいるかも知れんな、変わってるけど。
「おがわしょうせん」さんはお腹をさすりながら診察室を出てきた。受付嬢となにやら談笑を交わした後、AM散をもらっておだやかにクリニックを出ていった。
「すぎやまさ〜ん、すぎやまわいちさ〜ん」
"ま、また....?"
こんどは片野の左に座っていた神経質そうな会社員風の男だ。スーツに似合わない色の入った眼鏡をかけている。それにしても「わいち」という名前は現代にはあまり有りそうもない名前だ。まさか....?
診察室から出てきた「すぎやまわいち」さんは、ぎこちない手つきで支払いを済ませると、カタリン点眼薬をもらってそろそろと表に出ていった。
「ヘンさ〜ん、ヘン・ジャクさ〜ん」
看護婦の声に、片野はビクッとした。
"に、にほんじん...?"
立ち上ったのは後ろの方に座っていた普通のおじいさんだった。別段髭が長いとか、袖に手を入れているとかそういったところはない。しかしながら「あまりといえばあまりに無理がないか?」の名前である。
ヘンさんは腰を押えながら出てきた。
受付で湿布を受け取ると、腰を伸ばすようなそぶりをしながら家路についた。
待合室には片野ひとりが残った。次は彼の番だ。
片野は薄気味悪くなってきた。
”なんなんだ、この医院は...?”
日本顔の若い看護婦が、診察室から出てきた。
「はざまさぁ〜ん、はざまくろおさん、どうぞ」
”お、俺?!それって、俺か?!”
思わず片野は周りを見回した。
だが、周りには誰もいないのは当然だ。
「はざまさん、どうされました?どうぞ」
看護婦はおだやかな微笑をこちらにむけた。
「い、いやその...」
「午後ははざまさんが最後です。どうぞ」
「そ、そうですか....では」
なにやら片野は、自分が『その人』であるような気がしてきた。いや、そう思わざるをえない状況に追い込まれたような気もするが....「んん?!」
あることに気がついて片野は愕然とした。
さかきばらというあの青年は抗不安薬のソラナックス、
おがわさんは胃薬のAM散、
すぎやま氏は白内障治療薬のカタリン、
ヘンさんは、腰痛の湿布.....
みんな、片野が知ってるその名前の人に関係する治療を受けている。ということは....
「ち、ちょっと...用事を思い出しましたので」
「あら、すぐ済みますよ。ウチの先生、ウデは確かですから」
腕は確か....ますますもって怪しい!!
「いいいえ結構です。それでは.....」
「....どうしたんですか?お腹の調子が悪いと言う事でしたが」
奥から野太い声でゆったりとした体型の白衣の男が現われた。
「あ、も、もう調子がよくなりました。多分痙攣性の胃痛だと思います。大丈夫です、もう全っ然」
「そうですか....お医者の方ですよね。いや、医師国保をお持ちでしたから。とりあえずブスコパンをお出ししとこうと思ったのですが、お急ぎでしたらお薬だけでもお持ちになります?」柔和な顔の医師がそういった。
「.....あ....はい、おねがいします」
「お大事にー」
受付嬢の声を背に、消化管運動改善薬ブスコパンの入った薬袋を手に、なにやら釈然としない顔で片野は玄関を出た。
薬袋にはちゃんと「片野 宏之様」の文字が入っていた。保険証を提示したのだから当然なのだが、するとあの待合室でのアレは何だったんだ....?
ふと振り返った片野の目に、医院の看板が映った。
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診察随時・各種保険取扱 外科・内科・皮膚科・泌尿器科 循環器科・産婦人科・呼吸器科 院長 比保 蔵手洲 |
| 榊原伊織 | 時代劇「大岡越前」に登場する、空想上の医師。「小石川養生所」の主任医師をつとめる。南町奉行大岡越前と親交があり、仁医として知られる。ドラマでは最近鬱症患者であることが発覚した竹脇無我が好演した。 |
| 小川笙船 | 江戸時代中期の市井の西洋医師。徳川吉宗の目安箱に無料医療機関の設立を建議し、「小石川養生所」の開設に寄与した。江戸に蔓延した感染性消化器疾患の治療に尽力した。 |
| 杉山和一 | 江戸初期に活躍した鍼灸師。管鍼を使う日本鍼の発明者。五代将軍綱吉を治療した際に望みを問われて「一つ目が欲しい」と応え、現在の墨田区一つ目に屋敷を下賜された逸話は有名。盲人の学校設立に寄与するなどの功績により、当時の視力障害者最高の尊称である「検校」を与えられた。 |
| 扁鵲 | 中国戦国時代後期に実在した伝説的名医。運動器系領域をはじめ、ありとあらゆる疾患・治療に通じ、垣根の向こう側にいる患者の疾患部位も透視できたというおそるべき能力を持つ。鍼灸を使用した臨床医学の古典「難経」を編纂した人物といわれる。 |
| 間黒男 | 無資格の外科医。器質的/非器質的を問わずあらゆる疾患を、その天才的な「外科的処置」により治癒させる。また法外な治療費を取ることでも有名である。 通称「ブラックジャック」。 |
....その78へ続く(内二名が現存する事を筆者は知っている)