短期集中連載(笑)![]()
−この物語は、フィクションである−
その62
まったくツイてない。
氷島涼香(29)は交差点で信号が青になるのを待ちながら、鉛色の空をうらめしそうに見上げた。
"こんなはずじゃなかったのに....家を出るときにはぜんぜん降ってなかったのに..."
頭上を半分覆う首都高速の高架は、降り注ぐ雨露をしのぐ屋根になるどころか、通過する車がはねる水飛沫を存分に浴びせてくる。昨日セットしてもらったばかりの髪も、買ったばかりの初夏の色したミュールも、すでにぐっしょり濡れて重たげだ。
だがそれ以上に涼香を憂鬱にするのは、駅から濡れるままに歩く彼女に、だれも声をかけてくれないことだった。皆傘さしで足早に涼香を追い越していく。
会社はもう目の前である。だが片側3車線の幹線道路をわたる信号はなかなか青になってくれない。5月とは思えない寒さと、周りの傘の縁から滴る飛沫が涼香の身体も心もいっそう冷やしていく。
その時。
「どうぞ。」
ぶっきらぼうな太い声が背後から聞こえた。
涼香が振り返ると同時に、降り注ぐ雨が何かに遮られた。
涼香の頭上には、グレーのチェック地の、大きな男物の傘がさしかけられていた。
"え、あ・・・あの・・・"
とっさのことで涼香は言葉が浮かんでこなかった。
「寒いから。青ですよ」
最小限の言葉が飛んできた。
涼香は男を見上げた。
ダークブルーのスーツに身を包んだ普通のサラリーマン....顔は?....うわっ超タイプ...ちょっとやせてる気もするけど....
「あ、ありがとうございます」
やっとお礼をいうと、
「気になってたんだけど。誰も声かけないから」
またも最小限の説明だった。
普段は職場一のお喋りの涼香だが、実はこういう寡黙なタイプにはめっぽう弱い。
しどろもどろになりそうになって、慌てて言葉を捜すうち。
「あ。」
涼香の右側から傘をさしかけた左手には、シルバーのリングが光っていた。
"お、奥さん....?それにしてはデザインが派手だわ....彼女かしら?"
ぼんやり指輪を眺めながら彼と歩くうち、
「自分はこっちだけど」
いつのまにか横断歩道を渡り終えていた。はっと我に返った涼香。
「あ、わ、私はこっちです」慌ててまっすぐの道を指した。
「じゃ、ここで」
男は振り向きもせず、大通り沿いの歩道を足早に去っていった。
「あり...がとうございます...」
涼香の再度のお礼は、彼に届いたのだろうか。
涼香は職場の同僚に、この小さな出来事を面白おかしく語った。
そうしないと、あまりに夢見すぎな自分を知られてしまいそうだったから。
でも、もう一度....ひょとしたらチャンスがあるかもしれない。
だが、それから彼に会うことはなかった。
そして一年後。
また憂鬱な雨の季節が始まろうとしていた。
いつものように交差点をわたろうとした時。
目の前を足早に歩いていく、あの日の後姿が目に入った。
涼香は反射的に彼の左手を見る....しかし一人の彼は傘を右手に持ち、左手はポケットの中に、少し背を丸めながら黙って雨の中を歩いていく。
すこしだけ、涼香はためらった。
"でも...."
涼香は顔を上げ、声をかけようと彼の後を追った。
その隠された手に光るものがないことを願いながら。