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短期集中連載(笑)

−この物語は、フィクションである−

その20

フロントガラスに錆色の夕陽が浮かんでいる。落日に染まる横浜の街を、片桐美香(23)の乗った営業車はあてどもなくさまよっていた。

「総合営業職」なる仕事を得てから1年半が過ぎた。雇用機会均等法が描いたバラ色の未来は、彼女の許には未だ訪れていない。
美香の苦戦を尻目に成績を上げていく同僚と、上司のセクハラと、今彼女の車に同乗している売れない商品達の山に神経をすり減らす毎日だった。

もともと負けず嫌いで、何事も自分の力で解決してきた美香だったが、意欲が倦怠に、積極が逃避に取って代わるには十分な状況だった。憧れだったこの街も、今では魔物の棲み家のように彼女には疎ましく思えることが時々ある。

今日もまた、午前中に得意先を2、3件申し訳程度に回っただけで、野毛山公園のベンチでぼんやりしながら時間をつぶしてしまった。もうこんな時間になってアセっても、どこも営業なんか相手にしてくれない。また上司の小言と嫌味を聞くためだけに会社に戻る時間が近づいてくる。

「はぁ....」大きなため息をひとつついた美香は、本町の近く、弁天通の交差点に車を止めた。県庁近くのこの辺りは、彼女の気持を和らげてくれる数少ない場所である。得意先が近くに無いというのも、その理由の一つかもしれない。

『パラミデュース』は通りに面したオープンテラスのあるカフェだった。しかしさすがに日が落ちて寒くなったテラスには人影が少ない。美香はパラソルを閉じた白いテーブルのひとつに腰をおろした。

カプチーノのデミカップを何度か口に運びながら、今日の鬱な自分を整理していた美香は、ふと彼女のそばに立つ人影に気づいた。

顔を上げた美香の目に映ったのは、黒テンのファーコートに身を包んだ婦人だった。

背はかなり高い。お年を召しているようだが背筋を伸ばして優雅に佇むその姿には、老人という言葉は似つかわしくない。コートのすそからのぞく、白いピンヒールを履いた足はまるでマンハッタンのキャリアウーマンもかくやと思わせるような強い意志のある美しさを醸し出している。
が、それ以上に美香の目を奪ったのは、その御婦人の容貌だった。雪石膏のように一点の曇りも無い白皙の顔と、昔故郷で見た銀河の裾を、そのまま撫で付けたような白銀の髪は、性を通り越してもはや人間であるかも定かでないような、神々しさを感じさせた。

不意に美香は、胸の高鳴りをおぼえた。

もちろん美香にはその婦人との面識は無い。だがなぜか美香は彼女が誰であるかを知っていた。
「あの....マリーさんですか?」

美香が高校生の頃、巷に『横浜マリー』という曲が流れていた。
特に好きだったわけではない。夜の女として生きる一人の女性を歌ったその曲を聞くたび、自分はこんな不潔な人生だけは送りたくないと、多感な少女だった彼女は思った。いや、それ以上に、美香には遠い世界の、リアリティーのない話のように思えていた。だが心に刺さった棘のように、なぜか美香はこの歌を忘れることがなかった。

就職して横浜に出てきてから、実はマリーが地元ではかなり『有名人』であることを知った。
「....ああ、『メリーさん』ね。そういやこないだオレの知り合いが、元町でお茶してるときに見たっていってたなぁ」「なんでもGHQ将校たちのお気に入りのコールガールだったらしいぜ」「だとするともう70歳は過ぎてるだろ?いまでも現役だってんだから、恐れ入るね」「僕もいつだったか友達がマッシロに化粧したオバさんが『ザ・ホテルヨコハマ』から男と一緒に腕組んで出てくるのを見た事があるって言ってたなぁ、あれがマリーなのかなぁ」

....誰も本人を見たという人がいない。でも彼女は「都市伝説」として、しっかりこの街に生きていたのだ。

「あの....マリーさんですか?」

美香の問いかけに、婦人はただ黙って優しい微笑を返した。
「........(座っていいかしら?)」
美香はそう聞かれた気がした。慌てて隣りの席をすすめると、婦人はそれ以上ないような優美な仕種で腰をおろした。

近づいてくる初老のウェイターに軽くうなずいてみせると、ウェイターは黙って一礼し、ほどなく温かいキーモンが運ばれてきた。どうやら彼女はこの店の常連らしい。
白磁のカップに少し口をつけると、婦人は微笑を浮かべたまま、美香を見つめながら小首をかしげた。
「........(どうなさったの?)」
また彼女の瞳が美香に問いかけてきた。ふいに彼女は、張り詰めていた自分の心の結び目がほどけた気がした。

(あれ....ワタシどうしちゃったんだろ?)
美香自身にもなぜだかわからない。だが長く忘れていた涙が堰を切ったように溢れ出て、美香の頬をつたって流れた。

それからしばらく美香は、自分を全てさらけ出すかのように語り続けた。仕事のこと、生活のこと、友人のこと、別れたカレのこと....婦人は先ほどからの微笑のまま、ただ黙って彼女の問わず語りに耳を傾けていた。

「....ワタシ、どうしてこんなふうになっちゃったんだろ?前はなんだってできる気がしたのに。今のワタシなんて、何もできないほんのちっぽけな人間に過ぎないん...」
ふと婦人の白い手が伸びてきて、美香の右手をつかんだ。美香は言葉を止め、彼女の瞳を見つめた。ふと風が舞い上がるように席を立つ婦人、美香はまるでそれが決められていたことのように、彼女の後を追った。

既に宵闇の迫る海岸通りの並木道を無言で歩く二人、いつしか美香は幼な児のように婦人の手をしっかりと握りしめていた。いつも通い慣れている中区の官庁街のはずなのに、どこか異国の街を彷徨っているような、心地良い眩暈に似た感触が美香を捉えて放さなかった。

やがて2人は川辺りに佇むアンティークなホテルの前に辿り着いた。婦人はエントランスの前で立ち止まると、美香を見てまた優しげに微笑むと、自動ドアの向こうに消えていった。
道を失い、美香の頭には不安がよぎったが、婦人と別れて一人ぼっちになるのはもっと心細い気がして、彼女も後を追ってホテルのロビーに駆け込んだ。

ロビーは薄暗く、人影も見当たらない。婦人はただレセプショニストに目礼をくれただけで、そのままボーイが開ける時代がかったアコーディオン式のエレベータに乗り込んだ。
少し登ってエレベータを降り、客室の暗い廊下をまっすぐ進むと、彼女の目指す部屋のドアが突き当たりに現れた。彼女がノブに手をかけると、重厚なオーク材のドアは音も無く開いた。部屋に入る2人。部屋は意外に広く、ジュニアスーツほどの作りである。

「彼女はここで暮らしているのだろうか....?」美香は思った。
誘いこまれるようにリビングに足を進めた美香に、婦人は唇に指を当て、いたずらっぽくウィンクしてみせた。どうやら
(ここで待っててね)
ということらしい。

美香が少し落着かない気分でソファに座っていると、婦人が着替えを済ませてやってきた。彼女がまとっているのは純白のバスローブだ。
戸惑いを隠せない美香の横に座ると、婦人は美香の肩に手を回し、頬に優しくキスをした。驚いて身を固くする美香、そんな彼女の不安を和らげるかのようにそっと美香の手を取ると、寝室の隣にあるバスルームへと彼女をいざなった。

「どうしよう....」焦燥が美香の心いっぱいに広がる。
だがその奥底のどこかで、彼女についていきたいと願う自分がいることに美香は気づきはじめていた。意を決した美香は、誘われるままに婦人についていった。

美香はバスルームを覗いてみた。大きめのオールドファッションなホーローのバスタブには、真紅のバラの花びらとローズヒップが一面に浮かんでいる。
温かい蒸気の立ち上るその下には、淡い紅色の液体がたゆとっている。どうやらワインを入れてあるようだ。むせぶような甘い香りに、美香は気が遠くなりそうだった。
柔らかい白熱灯の灯りの下で、婦人のバスローブが音もなく滑り落ちた。

おそらくは途方も無い年輪を重ねていると思われるその肢体は、それでもまったくそんなことを感じさせない。小ぶりだがみずみずしい果実のように上をむいた乳房、引き締まった冬木立のような白い手足とヒップ、それはファティマが現実の世界に現れたかのような美しさだ。

近づいてきた婦人の手が、優しく美香の着衣をはずしていく。

それはまるで、初潮を迎えた娘の身体を慈しむ母の姿に似ていた。

美香は心の中の温かいものが次第に温度を増して素肌にまで届きそうな感触を手放したくなくて、佇んだまま婦人のなすがままにいた。

広いバスタブの中で、美香は婦人の胸にもたれかかった。

婦人の手は、滑るように美香の素肌を撫でていく。

脇から背中へ、そして更に下へ行くかと思うと急に上って胸の麓を回り、乳首をつまむと思うとまた背中をすべりおりる。思うに任せず、じれた美香がすねる子供のように身をよじると、婦人の柔らかい唇が美香の乳首をつかまえた。
「......!」
声にならない美香の喘ぎが浴槽に浮かぶ紅い花びらを揺さぶる。その間にも婦人の手は、美香の恥骨弓を軽やかにタップしながら、彼女の森の奥へと忍んでいった。
美香は彼女自身から立ち上ってくる快感と、甘く温かい熱気の中で、いつしか肉体が存在をなくし、ただ悦楽のみが心を満たしている自分に耽っていた。

いつどう歩いたのかわからない。気づくと美香は全裸のままシーツに横たわっていた。
美香を抱きすくめるように寄り添う婦人の唇と舌が、彼女の敏感な所を羽毛のように摩っている。
美香の肉体は、婦人が動く度に突き上げる歓喜に耐えるように、白い海の中を跳ね回った。彼女が次第に美香自身へと近づいていく。そして、柔らかいその触手が、可愛く勃起した美香の核にからみついた。下半身を電流が走ったような感覚に、美香は全身の力が全てどこかに飛び去ってしまったように思えた。

だが、婦人の舌技はそれにとどまらなかった。素肌を覆う痺れに最早自分がどうなっているかも分からなくなった美香。その美香の中へ、温かい生き物がするりと滑り込んだ。
「あ........っ」
その先にあるものが恐くて、思わず美香は脚を閉じようとした。
だが自由に奔放に動き回るその生き物は、美香の体の奥深くを愛撫し、彼女の制止を許そうとしない。いつしか美香の肉体は、その生き物の操るがままに踊り、官能によじれ、やがて美香が登りつめることを恐れる心をも解き放っていった....

頬に当たる冷気に、美香は目を覚ました。

彼女が横たわっているのは、荒れ果てたホテルの一室にあるソファの上だった。
ひび割れた壁から、冬の朝の海風が容赦なく押し入り、美香の体を打ち据えている。
彼女が着ているのは、営業車を降りた時のスーツそのままである。

少し寝乱れた服と髪を直すと、美香は外れかけたドアを開け、廊下に出た。エレベータも、フロントも、今は人影もなく朽ち果てた姿を晒している。

「昨日のことは夢だったのかしら....?」
呆然と辺りを見回す美香。ふと風がホールを舞い、彼女の髪が顔を撫で付けた時....
「あっ、この香り....!」
それはまぎれもなく、バラとワインの残り香だった。
「夢じゃなかったんだ....」

開け放たれた玄関を表に出て、建物を見上げると、そこにはあまりにも有名なホテルの名前があった。だが、もうそこにはかつての賑わいはなく、頭文字の"B"が少し傾いたまま、風に揺れていた。

何も変わらぬ日常が、彼女を待ち受けている。

でも美香は、少し背を伸ばして、朝靄の中を歩いていった。

....その21へ続く(窓を開ければ〜港がみえる〜♪)