「本質剥離」について


長年筆者は「本質剥離」という用語の意味を「オリジナルを取り入れ、長い時間の中で己が文化によってそれを咀嚼・改造し、結果オリジナルとは似ても似つかないものに変化させること」と理解していた。
が、改めて調べた所、実際は少し違うようである。

本語は、かのIK田DI作氏とも「親交篤い」英国の歴史学者アーノルド・J・トインビー氏によって記述されたもので、その意味は、
 “(宗教の)本質的なものを、そうでない付随的なものから分離すること
であるとのことだ。

これは、「ある文化の産物(宗教を含めて)」を異文化圏に導入する際に、ただ形だけをそのまま移すのではなく、元の文化圏に特有の部分(いわばI/Fの部分と言えようか)を慎重に「剥離」し、 そのコアとなる部分を抽出して持ち込む....という操作になる。

本質剥離の思想からすれば、その中心となる精神が揺るぎなければ、社会環境の違いによって外面が変質させられた文化的産物であっても、全て等価であるといえる。

「仏作って魂入れず」

という成句があるが、前述の本質剥離の定義に従えば

「魂込めればみな仏」

ということになるだろう。例えそれが、本場中国とは似ても似つかぬ「豚骨醤油ラーメン」、あるいは江戸前職人が目を剥くような「ロシア寿司」であっても。

そういう意味では筆者の理解はあながち間違っていたとはいえない。....と思う。多分。